演劇

石原さとみさん主演舞台「密やかな結晶」ネタバレ感想

東京芸術劇場よ私は帰ってきた。

東京芸術劇場
東京芸術劇場

というわけで、この土日の2日間泊まりがけで石原さとみさん主演の舞台「密やかな結晶」の観劇に行ってきました。鉄は熱いうちに打て。面白い舞台を観られたことの興奮を忘れないうちに感想を書きたいと思います。なお、完全、完璧、無慈悲にネタバレを含みますので、まだ観ていないというかたは絶対に読まないでください。
2月11日(日)と2月25日(日)千穐楽を観てきましたので追記しました。(下線部)

さて、冒頭の戯言の理由、実は東京芸術劇場での観劇は2回目となります。前回、観劇に行ったのは2009年に上演された「オペラ・ド・マランドロ」という舞台でした。しかも上演されたホールも同じ場所、もっとも当時は中ホールという名称で、今は東京芸術劇場自体がリニューアルされてプレイハウスというおしゃれな名前になっていますが。

まずはお約束の「密やかな結晶」グッズの全部買い。

密やかな結晶のグッズ
密やかな結晶のグッズ

マスキングテープって養生以外に何に使うのかと思ったら、最近は飾り付けに使ったりするんですね。原作本は、さとみちゃんが「密やかな結晶」に主演すると聞いてから直ぐに購入しましたが、舞台バージョンの表紙のやつも欲しかったので今回もう一冊購入しました。

なお、何の先入観もなく舞台を観たかったのでまだ読んでいません。なので、全然的外れのことを書くかもしれませんが、率直な感想ですので生暖かい目で見てください。

そもそもこの舞台は観る人によって、千差万別の解釈が成り立つ舞台だと思います。

SFとして観れば、日々何かを失っていく「わたし」や「おじいさんは」は生身の人間で、全てを記憶していて変わることのないR氏はアンドロイドだと解釈できます。肉体も心も朽ち果てていく人間と決して変わることのないアンドロイドとの切なくも儚い恋の物語というのはどうでしょうか。

また、秘密警察の登場や記憶狩りなどナチスや旧日本軍の特攻警察を思わせる描写は、戦争と権力の暴走への風刺的な物語ともとれます。原作者の小川洋子さんも「アンネの日記」のオマージュ(公演プログラムより)と言っていますし、この解釈がしっくりするのかもしれませんね。

そして、私が初見でイメージしたのはなんと老老介護、「わたし」は認知症で記憶をなくしていく奥さん、「R氏」は旦那さんで、「おじいさん」は若い頃の「R氏」で同一人物であるという解釈です。ちょっと現実的過ぎてもの悲しい物語になっちゃいますけど。実は舞台を観る前に介護の本を読んでいたのでこのような発想が生まれたのでした。

さて、では本題の感想に入りたいと思います。

ストーリー

あらゆる物が「消滅」し、そのものに対する記憶さえも消えていく島で、現実を受け入れて生きている「わたし」と「おじいさん」、物質的なものが消えていく序盤は明るくたくましく生きる二人が印象的です。

「R氏」が「消滅」したものの記憶をとどめておける「レコーダー」であるとわかってからは、壁越しにじょうごで作った通話装置を使って会話するシーンなど、「愛してる」という言葉が「消滅」してしまったために、自分の中に芽生えた感情が、なんなのかわからない「わたし」の戸惑いの表情が初々しいまでに描かれています。

そして、大切な人を「R氏」に奪われてしまっても、最後まで「わたし」に尽くし通す、「おじいさん」の切ないまでの献身が心を打ちました。

物だけでなく肉体も感情も言葉もすべてが「消滅」していく終盤にかけては、体が少しずつ「消滅」していく恐怖におびえる「わたし」と、目の前にあるのに「消滅」しているという「わたし」の言動が理解できない「R氏」のそれぞれの立場での葛藤が痛々しいほどに胸に響いてきました。

バラの花びらが舞台全体に舞い落ちる圧巻のラストシーンでは、「わたし」の最後の言葉に切なさを覚えるとともに、復活を予感させる、希望のある終わり方だなと思いました。

密やかな結晶の意味

密やかな結晶は、原作者の小川洋子さんによると

誰に心の中にもある密やかな場所に、ずっと大事に握ったひとかけらの結晶が有ってね、それは何者にも奪われないものなんです。
「密やかな結晶」公演プログラムより

舞台を観て、自分の印象として、「密やかな結晶」は「愛」ということなのかなと思いました。恋愛の「愛」というだけでなく、「おじいさん」の「わたし」に対するような慈愛もあると思います。

たとえ秘密警察であっても愛という感情、慈しむ心は奪うことはできません。人々の心の中にあって、決して消えることのないもの、そういう意味でこの舞台は「消滅」を描きながら「不滅」のものを描いているのだと感じました。

印象に残ったシーン

隠し部屋での「わたし」と「R氏」の愛の会話を聞いてしまった「おじいさん」が悲しみと、寂しさを抱えながら雨の中で唄うシーンがもの悲しくて、でも心に迫るものが有って好きです。

雨の中、歌い続ける
わけもなく、歌い続ける
いつまでも、歌い続ける
大声でー歌い続ける
Singing in the rain.
Just singing in the rain.
舞台「密やかな結晶」より

映画「雨に唄えば」の名シーンをオマージュしたかの様なシーン。(英語歌詞の部分が一緒かつ水たまりをバシャバシャするところとか)「雨に唄えば」では主人公がヒロインとの恋にうかれて、ウキウキしながら唄う陽気なシーンですが、この舞台ではもの悲しく、切ない旋律とともに「おじいさん」の苦しみ葛藤する心情を見事に表しているシーンだと思います。村上虹郎さんの演技が素晴らしくて、水たまりにジャンプしたり、水たまりを蹴とばすたびに、「おじいさん」の足下ではねる水しぶきが見えるようでした。

ただ、「おじいさん」の感情は恋愛の「愛」というより「慈愛」と言った方が良いのかも知れません。見た目が若いので混乱しますが、「おじいさん」なので。(^_^;

この時の感情はヴィクトル・ユゴーの小説「レ・ミゼラブル」のジャンバルジャンがコゼットを恋人のマリユスに託して二人の前から姿を消したときの心情に似ているのかなと想像しました。小さいころから親代わりにずっと大切に育ててきたコゼット、つらいことも悲しいことも嬉しいことも全て一緒に感じてきた。そんな愛しいコゼットに愛する人が現れ、親離れをしていくのを後押ししようとする、とても切ないシーンです。学生時代に電車の中で涙をボロボロ流しながら読んだのを覚えています。

「密やかな結晶」の「おじいさん」も恋愛感情とは違う大切な者を失う喪失感のようなものを感じていたのではないかなと思いました。

このシーンの前に「R氏」と「わたし」の二人がいる「隠れ部屋」から書斎にセットが回転していって「おじいさん」が二人の会話を聞いていたことがわかるのですが、左の方の席だと、たぶん後ろ姿を見せて歩いているところしか観られないと思います。しかし、その前にショックを受けて立ちすくむ「おじいさん」のもの悲しげな表情が見られるので機会があれば右側の席で観てみてください。

5回目で気づいたのですが、第一幕で初めてR氏が現れて、「わたし」が嬉しそうに満面の笑みで迎えるところでも「おじいさん」は複雑な表情をしているんですね。このときから、「わたし」が自分から離れて行ってしまうのでないかと不安がよぎっていたのでしょうか。

「おじいさん」と言えば、秘密警察ではなく一般市民に暴行されて大けがを負い、「わたし」を想って慟哭するシーンも胸に迫るものが有りました。

どれだけ「わたし」を愛していたのだろう、小さな頃からずっとそばにいて「お嬢様」と呼び、尽くし続けて無償の愛を注ぎ続けてきた。でも自分の命が今消えようとしている。「お嬢様、どうか私をお忘れにならないでください」。「死」という別れが見えたときに「おじいさん」は、「わたし」の記憶からも消えてしまうことを恐れた、自分という存在は「わたし」のためにあるものだから、「わたし」に忘れられることは自分の「消滅」を意味していたから。

考えてみると、「おじいさん」が暴行されたのは2回とも「R氏」がくれた「消滅」した禁忌品(オルゴールとラムネ)が原因だったわけで、「わたし」を奪われたことといい、「おじいさん」にとって「R氏」は疫病神のような人だったなあと思いました。

「おじいさん」は、香水(こーすいー)リボンやオルゴールなどを、「新種の毒キノコ」と呼ぶのですが、食べれば死ぬかも知れない、そんな危険性をはらんでいることを言い表していたのでしょうか。

そして、最高に印象深いのは、なんと言ってもラストの「わたし」と「R氏」のシーン。さとみちゃんと鈴木浩介さんの迫真の演技が心に迫りました。

既に全身のほとんどが「消滅」して体は動かない、言葉も一言一言口にするのが精一杯になってしまった「わたし」。心までもが「消滅」して行くなか、「わたし」が最後の気力を振り絞って涙とともに「R氏」に告げようとした「あ…、い…、し…」(愛してる)。言葉は途中で途切れてしまったけど、心の奥底の深い深いところにある、今は手が届かなくなってしまった「密やかな結晶」を最後に「R氏」に捧げる。

バラの花吹雪の中、「R氏」が「わたし」に口づけするシーンは、「眠りの森の美女」を思わせて、もしかして「わたし」を初め、すべての「消滅」したものが「再生」するのかと淡い期待を抱いたのですが、ディズニーと違って、鄭さんは甘く有りませんでした。

でも、本当に美しいシーンだと思いました。

2月25日追記
このシーンで心が少しずつ消滅していき言葉を発するのも難しくなっていくなかでR氏に思いを伝える「わたし」について、最初の3回観たときのさとみちゃんは、ロボットが話すようなたどたどしいしゃべり方の演技だったと思うんですが、4回目の11日に観たときに、たどたどしさを表現しながらも、もっと人間的なやわらかいしゃべり方に変わっていて、千穐楽ではさらに自然に、言葉を失って弱っていく「わたし」を演じられていたように思いました。

6月24日追記
本記事を読み返していて、もしかすると、R氏のRはリバース(rebirth:再生)なのかもと思いました。
「消滅」したバラが再生したように、R氏が記憶を失わないことで、香水やエメラルド、リボン、切手etc……が、また、元通りに再生して、いつか「わたし」もR氏の元に帰ってくる。そんな未来を想像してみました。

秘密警察と普通の人々

この舞台に登場する秘密警察は、とてもコミカルであまり恐ろしさが伝わってきません。

鄭さんがなぜこのような演出にしたのかはいくつか理由があると思います。まずは、ストーリー上どうしても全体的に重いトーンにならざるを得ず、観客が息苦しくなってしまうのを緩和するためのアクセントとして。

一つは、チャップリンの映画などに通じる、独裁者や独裁的な体制をストレートに批判するのではなく笑いとばすことで批判するというウルトラC。ウーマンラッシュアワーの村本さんのTHE MANZAIでのネタが物議を醸しましたが、たぶん、為政者にとってああいったお笑いにされることが一番きついんじゃないかな。

そして、これが言いたかったのかなと思うのが、登場する「普通の人々」の怖さを際立たせることです。なぜなら、この舞台で一番残酷だったのは、普通の人々だったからです。

買い物に出かけた「おじいさん」が、強欲なお婆さんに捕まり、「わたし」にもらったラムネを見つけられてしまい、「レコーダー」だとレッテルを貼られてお婆さん達に袋だたきにされてしまいます。さっきまで陽気に笑い唄っていた人々が集団リンチを行う。よってたかって杖で「おじいさん」を打ち付ける姿は、集団心理の怖さとを危うさを見せつけているように思います。これは、SNSでの炎上にも通じるものがあるような気がするんですよね。

このシーンを見ていて思い出したのが永井豪氏の漫画「デビルマン」のラストです。主人公の不動明の恋人、牧村美樹が敵であるデーモン(悪魔)ではなく、デーモンを恐れるあまり暴徒と化した人々によって惨殺される。人間の醜悪な部分を浮き彫りしたようなシーンに、初めて読んだとき慄然としました。無残な姿になった美樹を見た不動明は群衆にこう言います。「お前達こそ悪魔だ」。

「密やかな結晶」でも、人間の奥底に潜む悪魔性、ちょっとしたきっかけで人々はこんなにも残酷になれてしまうのだということを言いたかったのかなと思いました。

アドリブ集

3回観たので、毎回台詞が変わるシーンがあることがわかりました。

まず、初めてR氏が「隠し部屋」に入って、「わたし」の母親の彫刻を手に取るシーン。毎回「R氏」の台詞が違います。

3日昼 思いつかなかった。(あきらめたようです。)
3日夜 こけしになる前(たしかこう言っていたと思います。ちょっとうろ覚え)
4日昼 自分なりの柿の種
11日昼 私の心の中の柿の種
25日昼 私の頭の中の柿の種

それと、秘密警察のボス「フォーゲット」が「わたし」の家にR氏を探して踏み込んでくるシーンで母親の形見のオルゴールに書かれた母親のメッセージを読むところも「フォーゲット」の台詞が毎回違っていました。

3日昼 「愛を込めて」の「て」 のところが 「く」(だったかな)
3日夜 同じく 「てー」って棒がついてる
4日昼 同じく 「そ」になっちゃってる。
11日昼 3日夜と同じ
25日昼 同じく 点々がついて「で」さらに「ー」がついて「でー」、「こめでーって、米の日みたいになってるわ」と山内さんがかなり長いアドリブを入れて、さとみちゃんが笑いをこらえきれなかったのか後ろの方を向いて顔を隠していました。

次回観るときは注目してみてください。

ハプニング集

3日昼 第1幕の「わたし」が「R氏」を隠し部屋に匿うシーン、隠し部屋に入るところでセットが回転しなくなった。10分ぐらい中断してちょっと前のシーンから再開。

3日夜 劇中は特になかったですが、カーテンコールで通常、正面に向かってお辞儀をしたあと座長のさとみちゃんの合図で上手、下手、2階席とお辞儀をするのですが、この回は正面にお辞儀をした後、さとみちゃんがちょっと考え事をしてしまったのかボーッとしてしまって、しばらく立ち尽くすということがありました。ふと我に返って通常通りに戻りましたが、ちょっと恥ずかしそうでした。

4日昼 「おじいさん」の誕生日を祝うシーンで、シャンパンのコルクを覆っているキャップシールのワイヤーがとれてしまい、キャップシールがとれなくなる、慌てる村上虹郎さん、さとみちゃんが「ハプニングでーす」と初めて見る人に異常事態であることを知らせる。鈴木浩介さんがフォークで剥がしたが、その後、村上虹郎さんがコルク栓をゆるめたところでそのままコルクが抜けてしまいコルク栓が飛ばなかった。ちなみに3日夜はセットの向こう側まで飛んでいって拍手が起こった。

小ネタ

小説が消滅して島の人々が本を燃やすシーンで、ベンガルさんが持っているのはなぜか「Playboy」(^_^;、Hな小説が載っているからかな。

最後に

私はもう一回は見に行く予定ですが、3回見ただけでも毎回、さとみちゃんを初めみなさんの演技に深みが増しているのがわかったので、さらに進化した舞台を観られると思うので、そのときが楽しみです。

東京千穐楽を観てきました。閉演後カーテンコールでスタンディングオベーション、さとみちゃんは感極まって涙を浮かべていましたが、村上さんと鈴木さんに促されてあいさつをすることに、満面の笑みで「ありがとうございました。楽しかったです。」と言ってお辞儀をしていました。

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